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#160. De Pino


この春に入荷したDe Pinoのコレクションは昨年24AW Paris Houte couture week内で発表されました。
ブランド初のランウェイ、更にクチュールへの参入とファッションハウスDe Pinoが爆誕したメモラブルなコレクションのピースがCPD.に並んでいることが誇らしい。
以前どこかで書きましたが、De Pinoというブランドの在り方に私はとても関心と敬意をもっております。
今回の舵取りにしてもまったくぶれていないし、屈強なビジョンが実現したことが更なる躍進を後押しするのだと思う。
De Pino素敵だな。きっとGabrielはご自身とブランドがファッションという文化の中いることを心得ているのだろう。知名度や規模は関係ない。
これはあくまでも個人的な仮説なのですが、そう思ってDe Pinoと向き合うといろいろと腑に落ちるのだ。

25SSとしてお迎えしたDe Pinoのコレクションは、Gabrielに大きく影響を与えた3つのコレクションがパブリックに開示されデザインされています。
Balenciaga 06AW, PRADA 09AWそしてMartin Margiela09SS
他ブランド、デザイナーの過去の特定のコレクションを掲げてコレクションを発表するという行為はファッション史上あまり例をみないと思う。オマージュ的なリファレンスとも少し違う。あるのかな、私は知らないのだけど。
明言せずとも我が物顔で発表される方々は多くいらっしゃるが、そこをとやかく言いたいわけではなくて、De Pinoの表現方法が斬新で的確で現代的ではないかということを言いたい。
賛否あると思う。実際に物議を醸したコレクションとなった。でもこの現象はブランドにとって誇るべきことだ。
語弊があると思うが、同じ模倣品でも単なるまやかしか創作物かの違いはそこに別の視点と定義があるかどうかではなかろうか。
今回のDe Pinoの表現には、正に新たな視点が存在しているように思う。
模倣の可能性。
模倣模倣とDe Pinoに失礼なのは承知しているが、まったくネガティブな感情はない。
記憶の曖昧さ、自己変換による欠落や誇張といったDe Pinoのコア的概念を自身の敬愛するコレクションに扮して(公言の上で)再形成させるという試みはしっかりとファッション的でありつつ単なる模倣とは言えない別の何かだ。それをクチュールとして発表することに文化への敬意と現代における表現の展開を自分は期待してしまう。挑発もあっていいのだ。

ファッションに模倣は不可欠な行為で、作る側にも着る側にも売る側にもそれぞれに役割があると思う。それを新たな価値に変えることが文化の発展に繋がるのだろうし、たぶんその価値は未来にならないとわからない。

De Pinoにどこまでの意思があるのかはわからないけど、その行為自体に着目し挑んだDe Pinoはやはり天才なんじゃないか。
ここにあるのは決して多くはないですが、ものすごく不思議な存在で難解であり単純で、私は日々試されている。