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#119. PRAY


極めて緊迫した情勢下のウクライナ。毎日のメディアからのアップデートに心がゾワゾワして気が気ではない。
現地のデザイナーからは皆元気であることは聞いていますが、日々状況が変わる中で、はて今現在はどうなのか、というレベルで動いているのか。
とても心配です。私はウクライナはキエフしか行ったことがないけれど、自分にとって思いの深い場所が今穏やかでないこと。
政治についてこんなところで書けるほど理解が及んでいない。
正直心配で頭から離れない、何もできない自分は、ただ、ウクライナへ訪れた時の体験を書くことにします。
服とは関係ないので(そして長い)そんな旅日記なんて興味なわよという方は飛ばしてください。

ウクライナの首都、キエフへは、Casimir Pulaskiday.を始めてから2回訪れました。
デザイナーに会いにキエフに行くのはなぜか決まって冬、極寒。何でいま来た、夏はいいよ〜と各所で言われた。
私も別に好んで冬を選んだわけではないのだが、タイミング。
今でこそ自分も通信に不自由のない体制となって生きていますが、当時(といってもまだ3,4年前だが)はガラケーですし、小さなiPodひとつでフリーwifiスポットを探してはネットで情報を蓄積し、そしてまた移動、っていう繰り返し。ほんとよく行ったなと思う。
だってもう、本当にまず寒いわけです。マイナス25度とかいきますよ。それで言葉もわからんし何書いてあるかも全く理解できず、とにかくそこにいる人に聞くけどやっぱり何言ってるか分からなくて、うろうろする。予定の1/5もこなせない。とにかく何をやるにも時間がかかった。
だから会いに行けるのは1日2人が限界でした。

マックばっかり行ってた。wifiあるからな。マックを出るときの心の押し潰されそうな感覚は今もよく思い出せる。

なぜ行ったのかと言うともちろん、デザイナーに会いに行ったのですが、基本的にファッションビジネス的な華やかな時間は一秒もないです。いつもそうですが。
お金もないし、宿だってホテルは高いからAirbnbですし。
そう、2回目の旅のAirbnbで私がお世話になったフラットの女の子が実は、DZHUSのデザイナーのIrinaの大親友だったことがお話していて発覚した時は本当に2人で笑った。
とても優しい女性で私を連れて様々なキエフを案内してくれた。
左の子がそのDarina

ウクライナは物価が安いからご飯は何食べても安い。これが後ほど大きな失態につながるのですが・・・
これで1000円?みたいなくらい上等なご飯も(まあ私にとってですが)食べられる。普通においしいです。ウクライナ料理は乳製品が多く使われていてなんでもチーズペーストみたいなのかけていた。

以前から小耳に聞いてた、どでかい古着街があるというので、現地でデザイナーさんたちに聞いて行き方を教えてもらって行ったことがあった。
言うまでもなくそこに着くまでにも時間と体力を消耗しながらやっと着いた、キエフ中心から3時間くらいか、にある街(名前は忘れてしまった)での滞在数時間はとても思い出深い。
とにかく寒い。自分の防寒着では全く服が見られる状態ではなかった。
巨大な敷地に、基本外気にさらされた半屋内の大量の古着にセカンドハンド品、あとフードマーケットとか色々あるけど、どこ行っても寒くて。その日もマイナス20度だった、確か。その中で果てしない、本当に果てしない古着の山を見てもまったく正常な感覚で選べない。
本当に辛かった。写真撮るにも凍えて手が動かないからほとんどないです。少しだけ、しかもこれはまだ"撮れる場所"ということ。あそこは絶対に暖かい時期に行く場所だ。

どこへ行くにも帰るにも、1人ではまったく無理で。旅の間はとにかく人に助けられました。
私はティーンエイジャーみたいな見た目なのでこんな子供のチャイナだかヤポンスキーだかが1人でうろうろしているわけで、それは確かに大丈夫かってなるのだと思うのですが。
誰ひとりとして私を貶めたウクライナ人はいません。

行く場所を一生懸命聞いてくれて、そこへ行くバスの乗り場までそこから全然遠いのに歩いて連れて行ってくれて、そのバスを待つ列の人たちに私の行く場所を伝えてくれてバスではみんなで「今降りろ」(たぶんそう言ってたんだろう)って教えてくれる。

話がそれるけど、キエフには相乗りデカバンみたいなのがあって。バスとバンの間くらいの大きさの車にどんどん人が乗ってくるんだけど、お金は乗客伝手にドライバーまで届けらられるシステムで、私は常に一番前に乗ったから集金係みたいだなと思っていた、とい言う記憶。
とにかくみなさん親切で、言葉が通じないのに私を無碍にもせず携帯の音声翻訳などで教えてくれたり、Googleマップで偉く丁寧に調べてくれたり、荷物を持ってくれたことは何度もあるし。
雪が深すぎて進めず困ってたらおじさんが私を担ぎ上げて道になってるところまで抱っこしてくれたり。

そして1番のエピソードは、キエフ最終日、そこから次はニューヨークへ向かうんだったのですが、ブルジョワシティニューヨークの前にキエフでのラストランチは豪華にいこうと思い、持ってるフリヴニャを全部使ったわけです。

で、その後空港へ向かうバス(行きに乗った同じ番号のバスの反対車線)を待って。
そう、キエフのトランスポートの時刻表は当てにならないことはわかっていたのでかなり余裕を持って出発しています。
例にもれず遅れてきたけどまあ大丈夫だろうと思って乗ってしばらくして、、あれ、なんかへんかも。
私でも感じ取れるくらい見たことない景色になっている。あれあれ大丈夫か、と。でもバスの番号は行きと一緒だから間違いはない、でも、、ソワソワしてまた車内の人に聞いてみたけど、じいさんばっかりで無論英語は通じず、でもなんか一生懸命私に伝えようとしているのはわかる。
と、そこへたまたま乗ってきた女性が英語が話せた!ので状況を聞いてみたら、そのおじいさん云く、このバスは空港には行かないよ、とのこと。
どうやらキエフのバスは往復式ではなく一方通行式らしい。反対車線の同じ番号のバスに乗っても戻るわけではなく、ぐるっとまわって別のところに向かうということのようです。反対車線通ったりもする。
いやーそれは知らんよ。
私とじいさんの間をお姉さんが通訳しながら状況が見えてきた。
そしてお姉さんは悲しそうに言った、あなたはたぶん飛行機に間に合わない。と。
もうパニックです。バス中悲壮感に包まれる。そんな私を見てなんとお姉さんは自分の用事をキャンセルして私を連れてバスを降りました。
いいからとりあえず降りよう、もしかしたらタクシーで間に合うかもと言って。とりあえず降りてお姉さんはタクシーを呼んでくれた。
そして気づいた、あ、私お金ないんだった。
タクシーはカード使える?ってお姉さんにて聞いたらキエフはカードが使えなかった(当時は、今はわからない)。
またパニック。あーなぜ私は昼飯に惜しみもなく全額を投じたんだと。
降りた場所はハイウェイっぽい郊外道路みたいなところでお金なんておろせる気配はなく、また途方に暮れていたら、お姉さんがバックからお金を出して私に手渡したのです(思い出してもまた泣ける)。
もうどれだけいい人なんだ。なんでこんなに優しいのかと、タクシーを待っている間、私はキエフでの人の優しさについてお話していた。
そしたらお姉さんは、自分のした事は自分に戻ってくると信じているって言った。これ、数日前にも同じようなことをキエフの私に優しかったお兄さんが言っていた。こういうのはまわっているんだって。
ウクライナはキリスト教が多くを占めるが因果応報的な考え方が根付いているのかと思った。まあたまたま2人から聞いたことといえばそれまでですが。
いずれにしても私はウクライナの人の行動に何度も心を救われ窮地を脱した事は紛れもない真実。
そうだその後、タクシーのドライバーにお姉さんが急いで状況を説明してくれすぐに出発。爆速でかっ飛ばして(めちゃこわかった、何度かほんとに死ぬと思った)そして、ギリギリフライト間に合ったのです。

もう2度と会えない異国人の私にあんなにも優しかったお姉さん。タクシーを待ってる時に撮った写真だけ。

旅をして人に会う。当然いつでもできることだと思っていたこと。それがある時から罪となり、今もまだその跡は残る。
もう少ししたらまた日常となるのだろうか。ボーダーが濃すぎる。

自分は正直言って、見失っている。何が自分なのか。Casimir Pulaskiday.があることについて。
自分は変わってなくてもまわりが変われば結果的に自分も在り方は変化する。
考えすぎてしまうことが多いな、まったく。
少しづつ、自分の一番しっくりくる場所にまた、できたらいいです。

と変なこと書いてるうちにDZHUSが届いだ!今日やっと着きました。ずっとトラッキングの動きがなくて心配していた(諦めていた)けど、ここへやってきてくれた。
ありがとう。本当に嬉しいです。

刻一刻と変化する状況に心が締め付けられるけど、自分が見てきたキエフ、出会った人たちを強く想おう。そして願う。
Pray for peace.
NO WAR.